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2007年11月09日

感覚と理論の狭間

教育の問題点…

・感覚的すぎること
・教育活動が感覚的すぎること
・そもそも教育の研究も感覚的すぎること


教育という事象に対して工学という武器で立ち向かう学問…

「教育工学」


感覚的なものはバッサバサ切られます…


そして理詰めになっていく…


でも理詰めになると、なぜか世間で評価されない教育の世界…

どうして????



理詰めであることが評価されない世界だと発展性がない。
感情的であればあるほど次につなげていくことができない。

同じ過ちを繰り返す…


理詰めは決して相手を打ち負かすために理詰めにするわけではない。

より良い教育を求めてより客観的な視点から判断しようとしてるのに…

"良さ"を評価するためには基準がないとできないのに…



感情的に何かを訴えるだけが子供たちにとって真に教育的か…というとそういわけではない。理論尽くしで何かを訴えるだけが子供たちにとって真に教育的か…というとそういうわけではない。

どちらか片方…だけ

というわけではなくて両方が必要か…




"感覚でまかり通る世界"と"理論でまかり通る世界"

今はその両方に身をおいているような気がします。




感覚VS理論

果たしてどちらがより教育について真剣に考えて実行していると言えるのでしょうか。




感覚的な人は理論的な人に対してこう思います。
「理論なんて所詮は使えない…」

理論的な人は感覚的な人に対してこう思います。
「根拠もないのに…」





自分の経験を中心に物事を考えると感覚的になる。

「自分はこうだったから、これが正しい」


理論で考える人はこれに対してこう思う。

「あなたがそれが正しいと思うのはいいけど、それは本当に子供たちにすべきことなの?」



そしてそれを感覚的な人に言うと、感覚的な人は自分を否定されたように感じてしまう…


理論で考える人は否定するつもりはなくて、本質を見極めようとしているだけなのに…






自分の快・不快だけで判断することで良いのだろうか。
自分の快い感覚を得るために子供たちに対して教育的活動するので良いのだろうか。


コールバーグの道徳性発達理論によれば…
第1段階 罰回避と従順志向
→正しさの基準は自分の外にあって、他律的。親や先生のいうとおりにすることが正しい。処罰をさけるために規則に従う。

第2段階 道具的互恵、快楽主義
→自分にとって得か損かの勘定が正しさの基準。ほうびをもらい、見返りの恩恵を得るなどために行動する。

第3段階 他者への同調、よい子志向
→人間関係の維持が目的。身近な人に嫌われたり非難を受けるのをさけるために行動する。

第4段階 法と秩序の維持
→社会の構成員の一人として社会の秩序や法律を守るという義務感から行動する。

第5段階 社会契約、法律の尊重、及び個人の権利志向
→道徳的な価値の基準が自律化し、原則的になっている。個人の権利が尊重されているか、社会的公平であるかどうかが問題となる。

第6段階 良心または普遍的、原理的原則への志向
→人間の尊厳の尊重が正しさの基準。普遍的な倫理観を持つ。

[注釈]
・段階の移行は常に前進的であり、後退することはない。
・子供は段階を一つ一つ登っていく。飛び越えて発達することはない。
・どの文化圏の子供でも発達順序は同じ。



これはひとつ判断基準です…
もちろんこれがすべてだとは思いませんが…





感覚と理論の狭間…



みなさんはどちらよりの志向ですか。


自分はどっちだろ…

教授から見たらめちゃくちゃ感覚的だろうな…
ある人から見たら理論的だろうな…


絶対評価ではなく相対評価でしか自己評価できない自分…(^^;)

かなしい…


よくわからんわ





今日は、ちょっとぼやいてみました…感覚的に(笑)
posted by yuichi_saito at 03:04| 家庭教師指導記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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